LOGIN土曜日の午後、私は書店へ向かった。
スマホのカレンダーには『書店か喫茶店』とだけ入れてある。
約束ではない。
誰かに会う予定でもない。
だから、行かなくても誰にも迷惑はかからない。
それでも朝から少しだけ楽しみだった。
洗濯物を干して、部屋に掃除機をかけて、残っていた段ボールをひとつ潰した。
そのたびに、今日の午後は書店に行くのだと思った。
誰かのための買い物ではない。
必要な手続きでもない。
私が私のために出かける予定。
その軽さが、まだ少し新鮮だった。
◇◇◇◇
書店の入口横の掲示板には、新しいチラシが増えていた。
手作り市の案内。
児童書フェア。
地域の読書会。
そして、前に見た『次回展示準備中』の紙はまだ貼られている。
朝倉さんの名前はない。
少しだけ残念だと思った。
土曜日の午後、私は書店へ向かった。 スマホのカレンダーには『書店か喫茶店』とだけ入れてある。 約束ではない。 誰かに会う予定でもない。 だから、行かなくても誰にも迷惑はかからない。 それでも朝から少しだけ楽しみだった。 洗濯物を干して、部屋に掃除機をかけて、残っていた段ボールをひとつ潰した。 そのたびに、今日の午後は書店に行くのだと思った。 誰かのための買い物ではない。 必要な手続きでもない。 私が私のために出かける予定。 その軽さが、まだ少し新鮮だった。◇◇◇◇ 書店の入口横の掲示板には、新しいチラシが増えていた。 手作り市の案内。 児童書フェア。 地域の読書会。 そして、前に見た『次回展示準備中』の紙はまだ貼られている。 朝倉さんの名前はない。 少しだけ残念だと思った。 でも、その残念さをすぐに消さなくてもいい気がした。 また会えるかもしれないと思っていた。 会えなくて、少し寂しい。 それだけのことだ。 私は掲示板の前で小さく頷いてから、店内に入った。 本棚の間は静かだった。 土曜の午後だからか、平日の夕方より客が多い。 親子連れ。 年配の女性。 文庫棚の前でじっと背表紙を見ている男性。 それぞれが、それぞれの本を探している。 私は料理本の棚を少し見てから、暮らしのエッセイの棚へ移動した。 一人暮らし。 小さな部屋。 毎日の食卓。 そういう言葉が表紙に並んでいる。 少し前の私なら、そんな本を手に取ることすらなかったかもしれない。 今の生活に必要だからではなく、今の生活を少し好きになりたいから読む。 そういう選び方があるのだと、最近になって知った。
日曜日の朝、私は買ったばかりの料理本を開いた。 窓から入る光が、丸いテーブルの上に落ちている。 薄い青のカーテンは半分だけ開けていた。 ベランダには昨日洗ったタオルがまだ少し揺れている。 白い器にはヨーグルト。 グレーのマグカップには温かいお茶。 ページをめくると、小松菜と卵の炒め物が載っていた。 昨日の私の夕飯と同じ組み合わせだ。 写真の中の料理は、私が作ったものよりずっと色がきれいで、卵もふんわりしている。 でも、嫌な気持ちにはならなかった。 次はこうしてみよう。 そう思えた。 失敗が、責められるものではなくなる。 一人分の料理は、練習に少し似ている。 誰かに出すためではなく、私が私のために上手くなっていく練習。◇◇◇◇ スマホが震えた。 森下さんからだった。『藤崎さん、例の写真展どうでした?』 そういえば、週明けに少し話したきりだった。 私は少し迷ってから、テーブルの上の展示リストを写真に撮った。 そしてメッセージを打つ。『もう一度見に行ってきました』 すぐに返事が来る。『え、素敵です! お気に入りあったんですね』『うん。帰り道の灯りっていう写真』『タイトルだけでもいいですね』 私は少し考えた。 森下さんには、自然に話せる気がした。『一人で歩いている人の写真なんだけど、寂しいだけじゃなくて、向かう先に光がある感じだった』 送信する。 少し長かったかもしれない。 けれど、すぐに返事が来た。『それ、今の藤崎さんに似合いますね』 画面を見て、胸が静かに温かくなった。 似ている、ではなく。 似合う。 その言葉が不思議と嬉しかった。『ありがとう』『あ
土曜日の午後、私は洗濯物を干してから部屋を出た。 空はよく晴れていた。 薄い青のカーテンを開けた時、窓の外の光が部屋いっぱいに入ってきて、それだけで少し気分がよかった。 今日は、書店に寄る日。 スマホのカレンダーには、そう小さく入れてある。 誰かとの約束ではない。 時間を守らなければいけない予定でもない。 でも朝からずっと、その小さな文字が少し嬉しかった。 書店に寄る。 ただそれだけ。 朝倉さんがいるかどうかは分からない。 そもそも展示はもう終わっている。 それでも、掲示板を見て、本を少し見て、帰りに喫茶店の前を通る。 そういう午後にしたかった。◇◇◇◇ 書店の前に着くと、入口横の掲示板から写真展のチラシは外されていた。 少しだけ胸が寂しくなる。 終わったのだ。 あの白い壁。 『帰り道の灯り』。 感想カード。 朝倉さんと少しだけ話した時間。 全部、ちゃんと一週間の展示として終わった。 でも、なくなったわけではない。 私のノートには展示リストが挟んである。 感想も書いた。 この町で、私が自分で見に行ったものとして残っている。 掲示板には別の案内が貼られていた。 児童書フェア。 近所の手作り市。 読書会。 そして、一番下に小さく、次回展示準備中と書かれた紙。 出展者名はまだない。 私はその紙をしばらく見た。 朝倉さんの名前はない。 それでも、少し心が動く。 この町では、こうして次の何かが準備されている。 私が知らないところで。 私が見つけに来れば、出会えるものがある。 店内に入った。 今日は二階には上がらず、一階の棚をゆっくり見る。
皿を片づけたあと、悠斗は洗濯物を畳んでいた。 シャツ。 タオル。 靴下。 全部、自分のものだけだ。 二人分の洗濯物があった頃は、量が多いとだけ思っていた。 けれど一人分になると、少なさの方が目立つ。 真琴の服が混じらない洗濯物は、驚くほど無機質だった。 タオルを畳み終えた時、スマホが鳴った。 画面には、高瀬の名前。 悠斗は少し迷ってから出た。「もしもし」『生きてるか』 第一声がそれだった。「生きてる」『声が乾燥わかめみたいだぞ』「どんな声だよ」『水で戻せ。飯食ったか?』「食った」『何を』「豚肉ともやしの炒め物」『おお。進歩じゃん』「味は薄かった」『醤油を信じろ』「信じたら濃くなった」『醤油は宗教じゃなく調味料だからな。加減しろ』 悠斗は思わず笑った。 笑ったあとで、自分が笑ったことに少し驚く。 真琴が出ていってから、声を出して笑うことは少なかった。◇◇◇◇『で、片づけとかできてんの』「少しずつ」『偉い偉い。三浦に言ったら、三十二歳男性に偉いって言うなって怒られそうだけど』「言いそうだな」『岡崎は、偉いじゃなくて当然って言いそう』「それも言いそうだな」 同期たちの顔が浮かぶ。 居酒屋で言われた言葉も。 生活担当にしてたんじゃねえの。 気づかなかったは免罪符じゃないぞ。 真琴さんを自分の後悔の受け皿にしないこと。 どれもまだ、胸に残っている。 高瀬の声が少し落ち着いた。『この前さ、俺も家で洗い物したんだよ』「珍しいのか」『珍しいって言ったら怒られるけど、ま
◆ 悠斗は、食器棚の前でしばらく立ち止まっていた。 棚の中には、まだ二人で使っていた皿が残っている。 大きめの平皿。 深い鉢。 来客用にと真琴が買った小さな取り皿。 どれも、特別なものではない。 高価でもないし、思い出の品として飾っておくようなものでもない。 けれど、そこに並んでいるだけで、以前の生活の形が見えた。 真琴がよく使っていた白い器は、もうない。 欠けたグレーのマグカップもない。 それは真琴が持っていった。 持っていってよかったと思う。 真琴が自分で選び、自分の部屋に置くべきものだった。 それでも、残った皿を見ていると、胸の奥が鈍く痛む。 真琴が持っていかなかったもの。 この部屋に残ったもの。 それをどう扱えばいいのか、悠斗にはまだよく分からなかった。◇◇◇◇ 夕飯は、豚肉と野菜の炒め物にするつもりだった。 スーパーで安かったもやしとピーマン、豚こま肉。 味付けはネットで見た。 醤油、みりん、少しの砂糖。 分量どおりに入れたはずなのに、火加減が分からなくて少し水っぽくなった。 悠斗はフライパンの中身を見下ろした。「……まあ、食えるだろ」 誰に言うでもなく呟く。 食器棚を開ける。 一人分の皿を出せばいい。 そう思って手を伸ばしたのに、なぜか大きめの平皿を選んでいた。 二人で使っていた皿だった。 真琴が炒め物や焼き魚を盛って、テーブルの真ん中に置いていた皿。 それを見た瞬間、悠斗は手を止めた。 違う皿にするか迷う。 でも、戻さなかった。 これは真琴の代わりではない。 思い出を飾るためのものでもない。 皿は、食べるためにある。 残っ
書店を出ると、夜の入口のような空だった。 真っ暗ではない。 でも、昼の色はもう残っていない。 店先の灯りが歩道に落ちて、ガラス越しに本の背表紙が並んで見えた。 私は少しだけ振り返った。 二階の窓は外からは見えない。 でも、あの白い壁に並んだ写真の光が、まだ目の奥に残っている。 朝倉さんと話したこと。 感想カードを書いたこと。 また見かけたら来ます、と言ったこと。 それらを思い出すと、胸が静かに落ち着かなくなる。 でも、それは不安だけではなかった。 何かが急に始まったわけではない。 連絡先を交換したわけでもない。 次に会う約束をしたわけでもない。 それでも、また会うかもしれない場所がある。 そのことが、小さく心に残っていた。◇◇◇◇ 帰り道、私は八百屋に寄った。 閉店前の店先には、かぼちゃと小松菜、トマトが並んでいる。 店のおじさんが「今日は小松菜安いよ」と声をかけてくれた。 私は少し迷って、小松菜と卵を買った。 前なら、悠斗が食べるかどうかを考えていた。 量は足りるか。 味は好みに合うか。 明日の朝にも使えるか。 そういう段取りがすぐに頭を占めた。 でも今日は、私が食べたいから買った。 お浸しにしてもいい。 卵と炒めてもいい。 雑に味噌汁に入れてもいい。 自分だけの夕飯なら、失敗しても誰にも申し訳なくない。 それが、少し気楽だった。 袋を下げて歩きながら、私はふと笑ってしまう。 写真展の帰りに小松菜を買う。 何だか現実的すぎる。 でも、その現実感が嫌ではなかった。 写真の光も、夕飯の野菜も、同じ私の一日の中にある。 特別なものと日常は、別々に置かなくてもいいのだ
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。







